早いもので、新年が明けまして、早15日が経ちました。遅ればせながら、皆様本年も宜しくお願い致します。
昨年は、先住職である源祥和尚、先々住職 宗實和尚随身 塚原三代子が亡くなり、今年は例年経験したことのない喪失感を持ちながら、新年を迎えました。
喪中であることから、私どもから年賀はがきの送付は致しませんでした。
私が僧侶になる前には、除夜の鐘を打ちながら、周囲の景色などは全く変わらないのに0時0秒を迎えると新年が始まるということで、故人が生きていた年から変わってしまうという、時間を止めたくても止められない忸怩たる思いでいました。(なかなか表現が難しいですね)
しかし、僧侶が逝去することを遷化と言い、また本葬儀のことを津送といいます。津とは港のことを言い、浄土の港に遺族が送り届けることを言います。従って、活躍の場所を変えることであり、僧侶が亡くなることは不幸でも悲しいことでもなく、僧侶冥利につきることなのです。
また、住職の祖母にあたる先々住職随身も102歳という長寿にて大往生を遂げました。
従いまして、悲しくないと言ったら嘘になりますが、これからは私たちの周囲にそして私たちの心に常に生き続けてくれると思うと、悲観的になる必要があるのかと思うのです。
私たち僧侶、お寺から「おめでとうございます」と言わずして、どうして檀信徒の皆様が新年を迎えておめでたい気持ちになるでしょうか。
また、檀信徒の皆様から「おめでとうございます」と言われて、「いえ、今年は喪中です」と応えて、敢えて気遣いをさせる必要などあるでしょうか。
ですから、喪中の方にはもちろん言いませんが、敢えて分かった上で私から皆様には「おめでとうございます」と伝えております。
今年は、平成という時代が終わり、新天皇の下で新しい年号が始まります。新元号が始まるからこそ、心機一転の年にしたいと思うと、やはりめでたいと思うのです。
改めまして、皆様新年あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
東國寺住職
塚原 史方 合掌